おすすめマズい飯

■ 「マズい」と「怖い」は似通った心なのか。恐怖は誰も感じたくないはずなのに、ホラー映画は量産され続ける。レンタルDVD店では常に一シマ以上与えられる人気ジャンル。
そして、マズいものは今も昔も洋の東西を問わず常に生まれ続け、マズいと知りつつ人はそこに通う。
マズいものが人類に不必要なものならとっくに滅亡しているはずだろう。なぜだ。

「科学」が駆逐してきたはずの闇、亀裂、谷底といったものがまだ歴然とそこに存在している事を、「怖いもの」や「マズいもの」は我々の眼前に新鮮な形で突きつけてくれるのだ。

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おすすめマズい飯#6  【阿佐ヶ谷駅前 回転寿司】

入った瞬間に危うい雰囲気。生臭いわけではない。「悪臭を強烈な力で消毒」した臭いがする。つまりそれは薄氷の下に黒々とした闇が存在するという事だ。

H・P・ラヴクラフトの短編にある「ダゴン」を思い出す。
ナチスを出し抜いて、大海原に脱走した一隻のボート。たった一人、死の水平線を漂流した連合国兵士が命からがらたどり着いた陸地、それは太古の邪神に呪われた土地だった。
という、いわゆる"クトゥルフ神話"ものの一篇。

"カタ…ン…カタ…ン…"という周期的なモーター音とともに寿司皿が回ってくる。
回転寿司のネタのほとんどはいまや得体の知れない、謎の深海魚だ、という話しを思い出す。
「きもちわりい深海魚を目の前でさばくわけじゃないし別に良いよ」という声も聞こえてくるが、本当にそういうことでいいのだろうか。「エンガワ」という名称で流れてくるこの寿司は、一体この白く重なるヒダは、一体どんな形のどんな魚のどんな部分なのか。

値段表の、本来高額な一品のはずの金皿や銀皿の絵に、乱暴に赤マジックでバツが書かれ、「全品140円均一」と手書きで値段改訂のお知らせ。
均一?そんなことあり得るのか?ウニもイクラも赤身もツナマヨも同じ?
安すぎる。怖い。
「低」と「高」の間の中道価格を選んだというよりは、「低」にすべてを落としこんだ、という印象。

ままよ、と口に放り込む。脂の味と生臭い臭い。

「ダゴン」で、男が彷徨うのは真っ黒い汚泥の大地。
得体の知れない深海魚、大きな魚、小さな魚、長い魚、それに海草、貝、見たこともない無数の生物の死体が重なりあい、腐り、強烈な臭いを発してドロドロの黒い泥濘を作り上げている。

腐った汚泥の中にそびえるオベリスク。
一面真っ黒い世界の中で唯一白く輝くその石柱を見上げ、男は震える。
石柱には一面、不気味な生物たちの世界、生と死の歴史が刻まれ、そしてその頂点には彼らが崇める巨大なタコのようなイカのような邪神、ダゴンのレリーフが刻まれている。

"カタ…ン…カタ…ン…"と、飾り包丁を入れたイカの寿司が延々と回り続けている。表面が、鈍く乾ききっている。
寿司のメリーゴーラウンドの中心に立つ白い割烹着の男、板前さん(とこの場合も呼ぶのか)が、なにを思ったかそのイカの寿司を取り上げ、ネタをシャリから外すとサッと素早く手近の水道水で洗い、再度シャリに戻した。
何事もなかったかのようにイカの寿司は再び回転を始め、水道水で濡らされた白い表面はきらきらと輝いて見えた。

板前の目線のあたりには丁度湯のみなどの収納が並び、客の目線と板前の目線は合わないような設計になっている。どこか人間性を失わせる工夫だ。人を機械に、機械を人に思わせる工夫だ。その工夫の中で太古の暗黒世界からやってきた深海魚は切り刻まれ江戸前寿司になり、乾ききった寿司は水道水で洗われ、握りたての寿司に変わる。

身体の芯から背中、頭へ寒気が立ち上る。怖い。
兵士でもテロリストでもない、さしたるドラマも背景も持たない、ただの普通の男である自分が、ふいにこんなにも心底震える恐怖の亀裂の奥に入り込む。
だからマズいものはこの世から無くならない。

まるで自分が世界の果てに立ち、その縁から、永遠に終わらない夜の、底なしの混沌を覗きこんでいるように感じられた。奇妙なことに、恐怖を感じながら、『失楽園』と、形のない闇の国から登ってくる恐ろしい魔王の姿とが、心に浮かんだ。
ー「ダゴン」/H・P・ラヴクラフト












[ 2017/04/30 15:01 ] おすすめマズい飯 | TB(-) | CM(-)

名作の予告篇でなく「予告篇の名作」なのだ

■ ベイ氏の「トランスフォーマー」あたりからだと思うんだけど、映像と効果音と音楽の3要素でオーケストラ的に予告篇をつなぐ方法が流行り始め、最近ではアクション映画以外のジャンルでもこの"オーケストラ編集"の予告はずいぶん増えたなーと思う。



音楽と映像がシンクロすると観てる方は強く快感を感じるもので、確かにこの方法の編集はプロモーションとして効果的だなと思う反面、マイナスもある。音楽のテンポに合わせて画を切ることも必要になってくるので、結果的に画が死ぬことがある。映像のワンカットの中にあるテンポ、人の動きや表情、カメラワークなどは必ずしも音楽と一緒ではないので、無理に合わせて切ると当然殺してしまう事になる。

逆に「画にテンポがない」、「画が強くない」作品に無理矢理(っていう言い方もなんだが)テンポをつけるためにオーケストラ編集をすることもある。このあたりは予告篇制作者の手練手管ってもんがある。

で、「神々のたそがれ」予告篇だ。

−予告篇の名作−
「神々のたそがれ」



尺が2分でこの予告映像、なんと20カットしかない。驚異的に少ない。
音楽らしい音楽もついていない。セリフすらろくに入らない。
なのにこの不穏感、良い事が何一つ起こらなそうな張りつめた雰囲気、しかも怠惰にだらけきった、且つ崖っぷちに立たされているようなムードはどうでしょう。

これが映像のテンポだなあと思います。映像のテンポに忠実につないだ予告篇だなあと。

ほとんどがカット編集(フェードなどのエフェクトを使わないカットinカットout編集)なのも素晴らしいです。
「フェードは腰抜けだ」ってほどカット編主義者ではないけど、画の美しさがカット際でこそ引き立つ事もよく理解しています。

僕の編集の師匠は(勝手に僕がそう思ってるだけですが)、「ゆきゆきて神軍」の鍋島淳さん。そして丹治睦夫さんの手がけた「殺しの烙印」です。どちらも「バツッ!」と切ったカット尻とカット頭の切り口が超高級なカンパチ刺しみたいにビシビシ立ってる傑作です。まーやっぱり男だったらカット編でつなぎたいですよね。

映画本編を「小説」とすると、予告篇は5・7・5の「俳句」のような世界なんだけど、
だからこそ一語一語、ワンカットワンカットの「画の強さ」は凝縮されます。

この凝縮された感じを味わえるのは予告篇だけなんですよね。

だからこそ予告篇「だけ」の名作ってものがあるんだなあと思うわけです。











[ 2017/04/23 18:12 ] 予告篇の名作 | TB(-) | CM(-)

赤ん坊的な人

■ 昨年から赤ん坊的な人が家にいてアレなんだけどなかなか無い機会なんで手足の所作など眺めながら、どこに行き着くともない考えをぽつぽつとめぐらせてしまうのです。

『日本の歴史を読み直す』の網野善彦先生によれば、「非人」「穢多」という言葉が文献に登場するのは12〜13世紀以降だそう。

あまり知られていないことだけど、この「被差別的な身分」の人々が世間からネガティブな視線で見られるようになるのは江戸時代以降。

江戸以前まではどうだったかというと、ケガレに関わる仕事、つまり牛馬の扱いやその死体の処理、人々の葬送、墓守、罪人の処刑、などに従事しながらも「聖」の存在であったという。

つまり、人々に畏れられていたケガレを清めることができる特殊な能力をもつとされた人々であり、一般の世のヒエラルキーには属さない、「神仏の直属の部下」、
つまり人と神の境界にある、あわいの存在が「非人」や「穢多」だったのではないかという。

彼らの呼び名というのがまた面白くて、誰も彼もに「丸」がつく、「童子」がつく。例えば国末丸、吉光丸、牛飼童、八瀬童子などなど。

「丸」も「童子」も童名、つまり子供につける呼び名だ。童名を呼び名に入れる風習は他にもあって、例えば光進丸とか、鬼切丸とか、船舶の名前、武具甲冑につける名前、あとは笙(しょう)や篳篥(ひちりき)といった楽器の呼び名などに使われる事が多い。

これは童という存在が、人と神の境界に位置し、特殊な力を持っているからではないかと。命を賭した戦場で使う武具や、一寸先は闇の海で、あるいは神々との交信機材としての楽器に、あわいの存在の力を頼ったのではないかと。

まして同じくあわいの存在である「非人」たちが童の名を冠し、その力にあやかるというのはしっくりとくる話だ。




■ うちの赤ん坊的な人に目を移せば、大きなオムツをまとってM字に足を開き、両の手を万歳よろしくばーんと上げて地蔵のような面構えで無心に寝ている。かと思えばふいに目を開けてエヘアハ笑っている。神々しく感じようと思えば思えなくもないが、どちらかといえば阿呆のような顔に思える。しかし阿呆の神聖というものもあるのか。キリスト教にも「聖痴愚」という思想が割と根底の部分にある。

ブッダ爆誕前のインドではバラモン教がメインストリームだったわけだけど、ブラフマン(宇宙的究極真理)にアートマン(自分)がどれだけ近づけるかの勝負であり、それには苦行有るのみ、眠らない食べない体中に針を刺してアートマンを痛めつけて意識朦朧となればなるほどブラフマンに近づけると信じられていた。

「いつ」「どこに」「誰が」という見当識の3座標を失えば神の領域に近づけるというか、ちょっとドラッギーな世界に感じる。言ってみれば大人的な見識をすべて失って赤ん坊状態に戻ることを目的にしているように思う。あるいは「死」に近づけば近づくほど真理に近づく、ということか。バッドトリップ信仰ともいえる。

一方ブッダはバラモン教の絶対真理であるブラフマンは存在しないとして、すべては相対的で抽象的な「空」であるとした。相手がいるから私がいる。私がいるから相手がいる。どちらかがいなくなれば、どちらもいなくなる存在。

ブッダはバラモン教を否定したのかと言えばそうではなく、発展させたのかなと思う。
アインシュタインの相対性理論が、古典力学であるニュートン力学の発展形であるのと同じく。



■ 宗教学者の岸本英夫は自らが不治の病であると知ったときに著書『死を見つめる心』で自身の心を内をこんなふうに分析した。

「死の問題をつきつめて考えていって、それが〈この、今、意識している自分〉が消滅することを意味するのだと気がついたときに、人間は、愕然とする。これは恐ろしい。何よりも恐ろしいことである。身の毛がよだつほど恐ろしい」

赤ん坊的な人がヨダレをまき散らしながら体を回転させようとしている。この人に一体「自分」という意識はどこまであるのか。
自分と他人、自分と世界。境目のはっきりしないあわいの世界で、怖くて怖くて身をよじるのか。




■ 山内昶さんの「タブーの謎を解く」によると、
人類学者のターナーが境界(リーメン)論のなかで主張するには「境界性(リミナリティ)は、死や子宮、不可視なもの、暗黒、両性具有、荒野、日月の蝕に象徴される」とのこと。

境界は神聖であると同時に危険なものであり、忌避すべき「汚穢」でもある。

畳の縁は踏むなと言われるし、「誰そ彼」時や「彼は誰」時には神隠しに会うという。
水生動物と陸上動物の間に位置する動物には誰もが不気味な印象を持ち、
固体と液体の中間、ぐちゃぐちゃドロドロしたものは世界中の誰もが嫌悪感を持つ。

子を産んだ後の胎盤=胞衣(えな)は忌避すべきものとして決められた場所に埋めなければならなかった。
中央アルプスにある百名山の一つ、恵那山(えなさん)には天照大神の胞衣(えな)が納められたとして信仰の対象になっている。

tomb (墓)とwomb (子宮)は語学的にも文化的にも強い関連がある。
エジプトのピラミッドしかり、世界の権力者の多くは死からの再生を願って「子宮」に見立てた「墓」に埋葬された。



■ 古代の狩猟採集民は新しい野営地に着くと、まず一本の棒を地面につきたてたという。そうすることではじめてカオスから抜け出て、上と下、右と左といった世界の区別をつけることができる。

古事記によればイザナギとイザナミは混沌に棒を突っ込んでかき混ぜ、したたり落ちたしずくで島をつくることで国を生んだ。

うちの赤ん坊的な人はどのようにして境界の世界から抜け出すのか。
それは一体いつどのようにして起こる出来事なのか。
AIが「意識」を持つ瞬間も同じ現象が起きるんだろうか。



■ キューブリックの「2001年宇宙の旅」では人工知能の死ぬ瞬間が克明に描かれていて、これは「プライベート・ライアン」の後半で、ドイツ兵にナイフを胸に突き立てられて「ちょっと待って待ってタンマまずいまずいヤダやめて」とかのたうち回っているうちに、身動きとれないまますごーく"ゆっくりと"刺し殺されるシーンを思い出します。あれの何倍か怖いわけだけど。

かたや続編の「2010年」では人工知能・HAL9000を再起動して甦らせるってシーンがあるんだけど、「もしや今度は"生の瞬間"を劇的に描いてくれるのでは…?」とか期待してたら、
「やあ、どうしました?」
とか普通に目覚めちゃって、なんだかなあと思いました。
まあアレはアレでHALがすごく可愛く撮れてるHAL好き悶絶映画に仕上がってるんで、別モノとして面白いなあとは思いましたけど。















[ 2017/04/16 11:55 ] 雑記 | TB(-) | CM(-)