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アメコミ名曲予告篇

■ アメコミヒーロー映画に往年の超名曲を組み合わせた予告が流行っております。しばらく続く流れかもですね。




「マイティ・ソー バトルロイヤル」 × レッド・ツェッペリン“移民の歌”


1970年にリリースされた“移民の歌”は、ノルマン人(ヴァイキング)によるヨーロッパ北西部侵略をモチーフにした楽曲。
ソーは北欧神話に出てくる雷神さまなので世界観はぴったり合うわけです。

レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジは同じ北欧を舞台にしたデヴィッド・フィンチャー作品「ドラゴン・タトゥーの女」には“移民の歌”の使用は許さず、ソーには許可を出したわけで、それがなんの事情だったのか、お金の問題だったのか作品の好みの問題だったのかは分らんが、使わせねえっつうならいいよ!ってカバーしたナイン・インチ・ネイルズのトレント・レズナー版“移民の歌”がめちゃくちゃ良い出来になったので結果オーライ。

予告篇自体も伝説的な傑作に。





「ブラック・パンサー」 × ギル・スコット・ヘロン“ザ・レボリューション・ウィル・ノット・ビー・テレヴァイズド”


家でくつろいでる場合じゃないぜブラザー。
革命はテレビでは放送されない。
革命はテレビで再放送されない。
革命はテレビ中継されない
革命は生(ライブ)なんだ


ギル・スコット・ヘロンがこの曲を発表したのは1970年。
キング牧師、マルコムXら黒人リーダーは暗殺され、ベトナム戦争の混乱のなかで大人たちの嘘が次々暴かれ、黒人過激派グループが暴動、爆弾、暗殺と国中で暴れ回っていた。

誤解してる人も多いようだけど、マーベルコミックの原作「ブラックパンサー」が発表されたのは過激派グループ"ブラックパンサー党"の結党より前。考案者のひとり、スタン・リー曰く「政治的意図は全くない」とのこと。とはいえ1966年の発表なのでもちろん時代の空気には強く影響されている。

しかし今この歌詞だけぽんと読むと「ネット配信じゃなく映画館で観てくれよな」ってメッセージにも聞こえてくる。



「スーサイド・スクワッド」 × クイーン“ボヘミアン・ラプソディ”


Is this the real life?
これは現実なのか
Is this just fantasy?
それともただの幻か


ドアタマからごりごりとクイーンを推してくる名作予告。
難解と言われたボヘミアン・ラプソディ、歌詞の解釈としては「インド系の出自を捨て"フレディ・マーキュリー"として生きることを決めた俺。ママごめん」というのが正しいようだが、
通り一遍に読めば殺人を犯した罪人がやれ逃げろそれ逃げろ、という歌詞なのでヴィラン・スーパーヒーロー映画の予告にはぴったり。
初めて観た時は鳥肌立ちました。でも監督がデヴィッド・エアーつうことだったので本篇は観てません。




「ジャスティス・リーグ」 × ビートルズ“カム・トゥゲザー”


“カム・トゥゲザー”は1969年リリースのビートルズ「ABBEY ROAD」A面の1曲目。
ジョンが他のメンバーのことを順番に悪口を言っては最後に
Come together, right now
さあ、やろうぜ
Over me
俺と一緒にさ

と、けしかけるという歌詞世界になっている。
皮肉屋だったジョン・レノンならではということか、空中分解寸前のバンドの空気を歌ったものか。

マーヴェルと比べてイマイチぱっとしないDCエクステンデット・ユニバースの面々もキャラが強いので、ポール・マッカートニー役のバットマンがいろいろ根回ししても、なかなかうまくチームにはならない。バットマンはバットマンでわがままだったりもするし。
チームはまとまるのか、「さあ一緒にやろうぜ」となるのか、この辺のストーリーが”カム・トゥゲザー”の世界観とぴったり合うということか。

ビートルズは結局「一緒に」やれなかった。
ABBEY ROAD制作中にバンドはスタジオに集まらなくなってしまい、ポールはひとりで残された曲の断片をつなぎ合わせ、みながそこに一堂に会してるかのような、見事なB面のメドレーを作り上げる。

ちなみに予告で使われたのはブルース歌手、ゲイリー・クラーク・ジュニアによるカバーバージョン。
さすがに原曲はハードルが高いということか。




■ BGMと本編映像のアクション、効果音、セリフをシンクロさせたオーケストラ編集はいまやハリウッド大作予告の定番だけど、そこに名曲の世界観が組み合わさると、予告篇の奥行きがひとつ増すんでしょうね。テーマをより深くお客さんに見せられるというか。
お金がかかるので今こういった予告を作れるのはどうしてもアメコミ系が多くなるんだろうけどね。
予告も映画を見る楽しみの一つと思ってる人間にとっては、名曲予告が今後も増えることに期待。








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[ 2018/11/12 19:16 ] 予告篇の名作 | TB(-) | CM(-)

新興宗教の件

■ 「新興宗教」あるいは「新宗教」とは、幕末から明治以降に創られた宗教をさす。

島田裕巳さんの「日本の新宗教」にあたってみると、
そのほとんどが、神道系、または仏教(法華教)系の2つに集約されるようだ。




■ 幕末から明治期に生まれた新宗教の特徴は「神懸かり」。
教祖はたいてい貧困の中に生まれて、ある日突然神の宣託を受ける。
如来教や黒住教、金光教、天理教などがそれだ。
多くはトランス状態になった教祖の自動書記や口述を教義とする。

当然、神道とも仏教とも関係のない世界観なんだが、明治期の宗教弾圧から逃れるため、多くの新宗教が神道と無理やり結びついて生き残りを図っていた。

なんで神道なのかというと、記紀(日本書紀or古事記)どちらかに登場する神様の名前を出しておけば、教義はどうあれ神道系として認められる可能性が高かったからのようだ。
神道ガバガバである。

神道系の新宗教の始祖ともいえるのが「大本(おおもと)」。
「大本教」ではなく「大本」というのが正式らしい。

教祖の出口なおが行うのは他の新宗教と同じく、神懸かりによる自動書記“お筆先”。
崇教真光など、“手かざし”系の宗教も大本の影響を受けているといわれている。
よく駅前や公園で「あなたの幸せのために5分だけ祈らせてください…」などと手をかざして来られてびっくりしたものだが、最近はあまりそういう声もきかない。

「生長の家」の教祖として知られる谷口雅春もまた大本の出身。のちに大正、昭和の社会不安を吸い込みながら、国家と宗教の結びつきの強化を主張。天皇信仰に傾倒し、軍や政治の世界でも存在感を増していく。




■ いっぽう法華系の新宗教。
「法華最勝」、つまり法華経が最も優れてることをあらわすこのキャッチコピーのもと、主に日蓮を始祖として神格化している場合が多い。

法華系の新宗教といえば「いんなあとりっぷ」でおなじみ霊友会。
「ゆうゆうワイド」で大沢悠里さんが「この番組はいんなあとりっぷの霊友会が…」なんてあの声で言われるとコントラストが強すぎてとなんかギョッとする。

ちなみに立正佼成会も、この霊友会から分派して生まれた新宗教。

「国家と法華経を融合させるのだ。融合すれば最強になれるのだ。」という、
ハードな日蓮主義で知られるのが田中智学の国柱会。
近衛文麿や石原莞爾、宮沢賢治などなどそうそうたる顔ぶれに影響を与え、有名な「雨ニモマケズ…」の草稿の終わりにも法華経の一説が書かれていたとか。

この国柱会に影響を受けた牧口常三郎が開いたのが、創価教育学会。のちの創価学会。
「学会」の名の通り、そもそもは教育団体であり、創価学会って厳密にいって宗教なの?という微妙な疑問は残る。

後ろ盾として日蓮正宗があり、この日蓮正宗の在家組織が創価学会、という立ち位置。
微妙。
なので、創価学会に入る=日蓮正宗に入信するということであり、葬儀の時なんかは日蓮正宗のお坊さんがお経を唱え、墓も日蓮正宗の寺にある、という仕組みだった。

しかし1980年代にお布施をめぐって日蓮正宗と大喧嘩、決別してしまう。
創価学会はさらにさらに微妙〜な立ち位置になってしまうのだった。




■ 創価学会をはじめ、多くの新宗教は60年代の高度経済成長期に信者数を爆増させる。

「うちの神様を拝めば生活が良くなりますよ」

そもそも国の経済が上向いているんだから、確かに生活は良くなるのである。
現世利益こそが重要だった当時の新宗教には都合が良かった。

それが73年のオイルショックで激変する。
経済の停滞とともに信者数も横ばいとなる。
そして一定水準以上の生活を手に入れた一般庶民は、いまや現世利益を求めなくなっていた。

そこに登場するのが終末論的な信仰や、超能力の獲得などを唱えた「新・新宗教」。
世界真光文明教団や統一教会、GLA、幸福の科学、山岸会、エホバの証人、そしてオウム真理教などがこれにあたる。

89年に東西冷戦が終わり、ルールのない世界の中でナショナリズムばかりが盛り上がっていく。
直後に訪れるバブル崩壊による自信の喪失と無力感。
明治から昭和までに築き上げてきた家族システムは壊れ、新たな形状が生まれるまでの過渡期の中で、取り残された人々の孤独感。

いくつかの「新・新宗教」が強烈にアピールした荒唐無稽でオカルティックな「大いなる物語」に、自らの孤独感や無力感の埋め合わせを求めた人々も多かった。




■ そもそも明治新政府が立ち上がってから、欧州視察に出向いた伊藤博文が「日本にも宗教が必要だ。我が国においては天皇以外ない!」とひらめいて、天皇を現人神とする国家神道を急造したわけで、神道自体が新興宗教なのである。
(江戸時代までは天皇も幕府も神仏習合の宗教を信仰していた)

天皇信仰を強めた谷口雅春ひきいる神道系「生長の家」は戦後、靖国系神道と強く結びつき、現在の自民党の有力筋の多くが属する「日本会議」へと発展していく。

創価学会は言わずもがな公明党の支持母体として、政権与党を支えている。

言うなれば神道系、法華系の2派が日本の経営を回しているのだ。
無宗教という人も多いが、これでけっこう宗教国家なのである、日本。



■ 吉田司さんの「新宗教の精神構造」によれば、日本におけるカミとは"自然と人間との間を取りなす存在"とのこと。
「この自然現象どうにかしてくれ」と人間は山のカミさまや水のカミさまにお願いをする。

一方、文化人類学者マーヴィン・ハリスによれば、1人の王を中心として巨大化していった国においては、国のトップそのものが神へと変化していくのだとか。

つまり、
税金や労働をスムーズに収奪するには、時として収奪を行う役人など支配階級に対して罰などを加えて懲らしめる役も必要であり、そのことで国がまとまる。民衆は喜んで課税に応じるようになる。

巨大な帝国になればなるほど、王は慈悲深い必要がある。

やがてその慈悲深い王は概念だけの存在になり、王の上に常に慈悲深い「神」がいて、たまに人間を懲らしめる、という構図が出来上がる。
西欧的な「神」はまさにこのシステムだといえる。

古来日本のカミさまのほうがシステマチックじゃなくてボンヤリしてて良いなあと感じるが、これは当時の日本がトライブ、またはチーフダム程度の社会構成人数だったからで、さすがに現在くらいの規模になってしまってはここまで原初の宗教観には戻れないだろう。

ただ、宮崎駿先生の「もののけ姫」しかり、古い街道沿いに立つ顔も体も崩れ去ったお地蔵さんに向かって手を合わせる人々が今も割と数多くいる、こういったカミさま像がいまだ何となくそこかしこに残っているのは気持ちの支えにはなるのだよなあ、と思うのです。









[ 2018/11/02 10:06 ] 雑記 | TB(-) | CM(-)

物語なしで生きていけない

■ 23年前の1995年3月20日、事件の時間軸と照らし合わせてみると、僕は林郁夫と北千住駅ですれ違っていることになる。

林は千代田線千駄木駅から乗車。綾瀬駅、北千住駅でしばし時間をつぶしていた。いっぽう僕は町田の友人宅で朝まで飲んだ後、ほんの少しだけ横になってから友人たちと別れて小田急線へ、代々木上原から千代田線に乗り継ぎ、我孫子行の車両に乗り込んだ。

林が北千住駅で7時48分の代々木上原行の車両に乗り込んだちょうど同時刻、僕は同じ北千住駅を逆方面に通り過ぎて行った。
その後、林は新御茶ノ水駅直前でサリン入りのパックを傘の先端で突き刺して逃走。僕は家に帰ってひとっ風呂浴びたところでTVの速報を目にすることになる。




■ 今年7月に元オウム幹部13人の死刑が矢次早に執行されて、なんだかドタバタ行き当たりばったりな感じで「解決」された。

「勉強して→良い大学入って→良い会社に就職して→良い結婚をして→良い子供を育てて→良い車と良い家を建て→定年まで勤め上げ→子供たちに囲まれながら年金で悠々自適に老後を暮らしていく」

この“昭和すごろく”が崩壊しつつあることに人が気付き始めたのがオウム事件のあった90年代。

すごろくはただのぺらぺらの紙で、ひっくり返しても表にも裏にもなんの夢も希望も無かった。嘘つきばっかりだったし、みんな自分のことしか考えてなかったし、ちょっとでも立ち止まれば、疑問を持てば、異論を唱えれば、弾かれて睨まれて無視されて流れから外される。最初からそこには誰もいなかったような顔をされて明日からは全然別の人間がその席に座ってる。「僕でなきゃならない」理由なんてどこにもない。

自分ひとりが抗ったところで何も変わらない、無力感と孤独感。誰のせいにもできない。国のせいだと怒鳴ったところで僕らの毎日が変わるわけじゃない。ただただ目の前に、圧倒的な無力感と孤独感がゴローンと転がっている。明日も明後日も明々後日も、延々と続く。

そこから僕らを救ってくれるのは「物語」だけだ。
自分も含めて、誰しも「物語」なしでは生きていけない。
なかには「敵」を生み出すことで自分を救おうとする人もいる。

この不遇な毎日の原因は、悪い誰かがいるからだ。実は敵がいたのだ。明確な悪だ。解決法は簡単だったのに、誰かの陰謀で差し止められていたのだ。ずいぶん時間を無駄にしてしまった、けどまだ間に合う。敵を攻撃すれば、倒せば、すべて解決される。

それはヨガから始まる超自然現象のコントロールでもいいし、天皇主義でもいいし、嫌韓嫌中でも反レイシズムでもいい。行き過ぎた性教育への反対でもいいし、反原発でもアベ政治を許さないでも反日本会議でもいい。そこに物語さえあれば、そこに没入できれば、今より心の具合は良くなる。心の具合が良くなるのは、心の具合が悪くなるよりずっといい。




■ 「物語」が「無力感と孤独感」と共存できているうちはいい。
厄介なのは、それらを無かったものとして「物語」だけが進んでいく場合だ。

「無力感と孤独感」を認めたくないがあまり、敵視は過度になり、攻撃も激しくなる。
「物語」への依存は強くなり、自家中毒を起こしながらそこに埋没していく。

良い部分だけを見つめて、悪い部分は誰かのせいにして見ようとしない。存在を認めない。
「物語」を優先して現実のほうを歪ませる。

彼らは勇ましい言葉で敵を攻撃し続けて、自分を鼓舞しているけど、内心はびくびくしている。自分の信じてる「物語」が無くなってしまったらどうしようと思ってる。後戻りなんてしたら今まで積み上げてきたすべてが台無しになる。またあの無力感と孤独感の毎日に戻ってしまう。無に戻る恐怖を人質にして、大いなる「物語」の中へ、彼らはますます没入していく。

「(第三次世界大戦で敗れた結果)もう日本がないというのは非常に残念です。これを(米軍の)エンタープライズのような原子力空母の上で行うということは、非常にうれしいというか、悲しいというか、特別な気持ちであります」

麻原彰晃は初公判から1年後の意見陳述でこう述べた。

現実のほうを変換することに決め、45年9月の東京湾、戦艦ミズーリ号での降伏文書調印式に自分を同化させた。




■ サム・メンデス監督の「レボリューショナリー・ロード」では、50年代アメリカの典型的な夫婦が破滅していく様子が描かれていく。


この夫婦にとって敵などどこにもいない。
どうしようもない不幸が訪れるわけでもない。
誰も2人に厳しい試練など与えない。

男は安定した会社でベルトコンベアの一部となって働くうちに、自分が誰でどこで何をしてるのか分からなくなっていく。
女は主婦として清潔で広々とした家に閉じこもり、自分が誰でどこで何をしてるのか分からなくなっていく。

淡々と確実に、気が付いたら身動きも取れず後戻りもできず、2人はまっさかさまに地獄に堕ちていく。

「敵がいない」ストーリーを映画にするのはとても難しい。物語が展開しないし、カタルシスもないから。だけどこの映画にはぐいぐい引っ張りこまれる。撮影監督ロジャー・ディーキンスによる絵画のようなライトとカメラの魅力も大きいが、やっぱりサム・メンデスのストーリーテリングの力なんだろう。「007」的なものはもういいから中規模、小規模作品をじっくり時間をかけて作ってもらいたいなあと思う。




■ 現実には100%の敵なんていない。いればずっと楽なのに、実際はいない。
100%の味方もいない。だから親子だろうと夫婦だろうと他人の心は慮るべきだ。
どこまで拡大しても境目は無い。白黒の決着はつかない。グラデーションのままだ。











[ 2018/10/26 20:08 ] 雑記 | TB(-) | CM(-)



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