オバケが怖い

■ オバケって怖いじゃないですか。
小学生時分、「ご飯よ」と一階のマムから声をかけられた夕方、暗くなり始めた二階の廊下を歩き始めると、必ず背後からガイコツのオバケが襲ってきました。

ガイコツのオバケ。

書いてみると全然怖くないですけどね。涙が噴き出すほどだったんですよ、当時は。マジで。

あれはどんな感覚だったのかと、
いま自宅の深夜、廊下でひとり電気を消してぼーっと立ってみたりするわけですが、怖くない。
真っ暗闇のなかで、更に真っ暗な廊下の隅っこなんかをじーっと、じーっと眺めたりするんだけど、怖くない。

出てこない。ガイコツも何も。
オバケはすっかりいなくなってしまった。




■ 柳澤佳子著、『われわれはなぜ死ぬのか』によると、
「人々は死体の腐敗解体の過程に"亡霊"を見る」のだそう。

腐りゆく死体に結びついた不吉な亡霊が、生き残ったものを悩ます。
その根底には人間の持つ「死骸の腐敗解体に対する恐怖」がある。

アデノシン三リン酸が分解され死後硬直を起こした後、
腸内の細菌は繁殖し、肌に緑色の斑点が現れ、筋肉が腐敗していく。
臓器は融解し、頭蓋、胸郭、骨盤内をどろどろの液体で満たす。
肝臓が約三週間、心臓は5ヶ月ほどで消滅する。
タンパク質はアミノ酸やアンモニア、硝酸などに分解され、
炭水化物はアルコールやケトン、有機酸に分解され地中に染み込んでいく。
脂肪は低級脂肪酸に分解されて悪臭を放ち、
成人の死体で約5立方メートルほどの量の腐敗ガスを放ち、すべては分解されていく。

フランスの社会学者エドガール・モランによれば、
死の恐怖は「死者を個別のものとして認識しているからこそ生まれる」という。
つまり死んだ人間が腐って崩れて形を成さなくなっていく過程で、その人が持つ「個性」も崩れ落ち、何者でもなくなっていく。
その様子に恐怖を感じるのだそうだ。

つまりオバケは、
主体と客体の区別が曖昧になった、
自分と他人、自分と世界の区別がつかなくなった時、場所に現れるってわけだ。




■ 中学1年生の頃に読んだ『刑務所の中のリタ・ヘイワース』『ゴールデンボーイ』があまりに面白くて、スティーヴン・キングの大ファンになるわけだが、あとがきを読んでたら「自分自身はオバケが怖い、苦手」とキング本人がコメントしてた。

ホラーの帝王なんだからもう夜ごと血みどろの妄想にふけって、近所の猫を捕まえてはバラバラにしてまた繋ぎあわせる、とかだろうと思ってたので意外。

本人曰く「ベッドから手や足が出てたりするとオバケに触られそうで、暑くても苦しくても絶対手足を外に出さなかった」のだそう。

「オバケに触られる」怖さってすごく良く分かるんだけど、触れるくらいまで近くにきたオバケはなぜ布団の中には入ってこないんだろう。取り憑いて殺したい、無くした右手を返してほしいっていうなら、布団を剥いででも襲ってくると思うんだけど、オバケはそうはしない。

これはやはりベッドが自分の拡大版、主体の象徴だからなんじゃないでしょうか。
主体がはっきりしている世界にはオバケは生まれないわけです。
主体がちょっと曖昧になる場所、
つまりベッドの端とか、ベッドの下とか、少しだけ領域を離れてしまった場所、
自分と世界の間にある境界、やはりそこにこそオバケは頻出するということでしょう。




■ 前掲の『われわれはなぜ死ぬのか』によると、
・「3〜4才の子供にとって死を認識するのは難しく、眠ってる、もしくは別の所に出かけていると考える」
・「5〜9才になると、死ねば生き返る事は無く、生きるものはすべて死ぬ運命にあると分かるようになる。しかし自分もその運命にあるとは考えない」
・「10才以上になると死は自分の身にも起こりうる事と知り、自分なりの死生観を探そうとする」
のだそう。

自分のみしか存在しない完全な世界が、cfosやCREBといった長期記憶遺伝子の発現とともに生まれた「意識」によって整理されていき、完全だった世界のなかに徐々に「他人」が生まれてくる。

「他人」を合わせ鏡とした「自分」という存在が徐々に確立し、アイデンティティが生まれ、彼我の区別があらゆるシーンではっきりしてくる。

この成長とともに、主体と客体の間にある境界の世界、オバケの住処は徐々失われていく。



■ と、するとだ、
例えばロックドイン症候群のように、自分の身体の中に自分が閉じ込められて、他者と関係を築く事がかなり難しい状況にある人のオバケとの関係はどういったものなんだろうか。ロックドイン症候群ではない僕と比べて、オバケに接触する機会は多いのか少ないのか?

例えば四十、五十にもなってオバケを見る人は「自他の区別がついていない、社会性の少ない人」という見方が成り立つのか?

例えば「自分だけの世界」の力が極端に強い人、例えばソシオパス、サイコパスといった激しく利己的な特性をもった人間とオバケの関係はどういったもの?

などなど、
オバケへの興味って尽きないわけです。

僕の前に現れなくなったからといって解決された問題にも思えないし、
これから徐々に自分の子供もオバケを見る年頃になっていくだろうし、
「悪魔のいけにえ」とか「死霊のはらわた」とか観せて、
良く様子を観察していかないとならないなと、緊褌一番、気持ちを新たにする7月なわけです。










[ 2017/07/01 10:30 ] 雑記 | TB(-) | CM(-)

おすすめマズい飯

■ 「マズい」と「怖い」は似通った心なのか。恐怖は誰も感じたくないはずなのに、ホラー映画は量産され続ける。レンタルDVD店では常に一シマ以上与えられる人気ジャンル。
そして、マズいものは今も昔も洋の東西を問わず常に生まれ続け、マズいと知りつつ人はそこに通う。
マズいものが人類に不必要なものならとっくに滅亡しているはずだろう。なぜだ。

「科学」が駆逐してきたはずの闇、亀裂、谷底といったものがまだ歴然とそこに存在している事を、「怖いもの」や「マズいもの」は我々の眼前に新鮮な形で突きつけてくれるのだ。

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おすすめマズい飯#6  【阿佐ヶ谷駅前 回転寿司】

入った瞬間に危うい雰囲気。生臭いわけではない。「悪臭を強烈な力で消毒」した臭いがする。つまりそれは薄氷の下に黒々とした闇が存在するという事だ。

H・P・ラヴクラフトの短編にある「ダゴン」を思い出す。
ナチスを出し抜いて、大海原に脱走した一隻のボート。たった一人、死の水平線を漂流した連合国兵士が命からがらたどり着いた陸地、それは太古の邪神に呪われた土地だった。
という、いわゆる"クトゥルフ神話"ものの一篇。

"カタ…ン…カタ…ン…"という周期的なモーター音とともに寿司皿が回ってくる。
回転寿司のネタのほとんどはいまや得体の知れない、謎の深海魚だ、という話しを思い出す。
「きもちわりい深海魚を目の前でさばくわけじゃないし別に良いよ」という声も聞こえてくるが、本当にそういうことでいいのだろうか。「エンガワ」という名称で流れてくるこの寿司は、一体この白く重なるヒダは、一体どんな形のどんな魚のどんな部分なのか。

値段表の、本来高額な一品のはずの金皿や銀皿の絵に、乱暴に赤マジックでバツが書かれ、「全品140円均一」と手書きで値段改訂のお知らせ。
均一?そんなことあり得るのか?ウニもイクラも赤身もツナマヨも同じ?
安すぎる。怖い。
「低」と「高」の間の中道価格を選んだというよりは、「低」にすべてを落としこんだ、という印象。

ままよ、と口に放り込む。脂の味と生臭い臭い。

「ダゴン」で、男が彷徨うのは真っ黒い汚泥の大地。
得体の知れない深海魚、大きな魚、小さな魚、長い魚、それに海草、貝、見たこともない無数の生物の死体が重なりあい、腐り、強烈な臭いを発してドロドロの黒い泥濘を作り上げている。

腐った汚泥の中にそびえるオベリスク。
一面真っ黒い世界の中で唯一白く輝くその石柱を見上げ、男は震える。
石柱には一面、不気味な生物たちの世界、生と死の歴史が刻まれ、そしてその頂点には彼らが崇める巨大なタコのようなイカのような邪神、ダゴンのレリーフが刻まれている。

"カタ…ン…カタ…ン…"と、飾り包丁を入れたイカの寿司が延々と回り続けている。表面が、鈍く乾ききっている。
寿司のメリーゴーラウンドの中心に立つ白い割烹着の男、板前さん(とこの場合も呼ぶのか)が、なにを思ったかそのイカの寿司を取り上げ、ネタをシャリから外すとサッと素早く手近の水道水で洗い、再度シャリに戻した。
何事もなかったかのようにイカの寿司は再び回転を始め、水道水で濡らされた白い表面はきらきらと輝いて見えた。

板前の目線のあたりには丁度湯のみなどの収納が並び、客の目線と板前の目線は合わないような設計になっている。どこか人間性を失わせる工夫だ。人を機械に、機械を人に思わせる工夫だ。その工夫の中で太古の暗黒世界からやってきた深海魚は切り刻まれ江戸前寿司になり、乾ききった寿司は水道水で洗われ、握りたての寿司に変わる。

身体の芯から背中、頭へ寒気が立ち上る。怖い。
兵士でもテロリストでもない、さしたるドラマも背景も持たない、ただの普通の男である自分が、ふいにこんなにも心底震える恐怖の亀裂の奥に入り込む。
だからマズいものはこの世から無くならない。

まるで自分が世界の果てに立ち、その縁から、永遠に終わらない夜の、底なしの混沌を覗きこんでいるように感じられた。奇妙なことに、恐怖を感じながら、『失楽園』と、形のない闇の国から登ってくる恐ろしい魔王の姿とが、心に浮かんだ。
ー「ダゴン」/H・P・ラヴクラフト












[ 2017/04/30 15:01 ] おすすめマズい飯 | TB(-) | CM(-)

名作の予告篇でなく「予告篇の名作」なのだ

■ ベイ氏の「トランスフォーマー」あたりからだと思うんだけど、映像と効果音と音楽の3要素でオーケストラ的に予告篇をつなぐ方法が流行り始め、最近ではアクション映画以外のジャンルでもこの"オーケストラ編集"の予告はずいぶん増えたなーと思う。



音楽と映像がシンクロすると観てる方は強く快感を感じるもので、確かにこの方法の編集はプロモーションとして効果的だなと思う反面、マイナスもある。音楽のテンポに合わせて画を切ることも必要になってくるので、結果的に画が死ぬことがある。映像のワンカットの中にあるテンポ、人の動きや表情、カメラワークなどは必ずしも音楽と一緒ではないので、無理に合わせて切ると当然殺してしまう事になる。

逆に「画にテンポがない」、「画が強くない」作品に無理矢理(っていう言い方もなんだが)テンポをつけるためにオーケストラ編集をすることもある。このあたりは予告篇制作者の手練手管ってもんがある。

で、「神々のたそがれ」予告篇だ。

−予告篇の名作−
「神々のたそがれ」



尺が2分でこの予告映像、なんと20カットしかない。驚異的に少ない。
音楽らしい音楽もついていない。セリフすらろくに入らない。
なのにこの不穏感、良い事が何一つ起こらなそうな張りつめた雰囲気、しかも怠惰にだらけきった、且つ崖っぷちに立たされているようなムードはどうでしょう。

これが映像のテンポだなあと思います。映像のテンポに忠実につないだ予告篇だなあと。

ほとんどがカット編集(フェードなどのエフェクトを使わないカットinカットout編集)なのも素晴らしいです。
「フェードは腰抜けだ」ってほどカット編主義者ではないけど、画の美しさがカット際でこそ引き立つ事もよく理解しています。

僕の編集の師匠は(勝手に僕がそう思ってるだけですが)、「ゆきゆきて神軍」の鍋島淳さん。そして丹治睦夫さんの手がけた「殺しの烙印」です。どちらも「バツッ!」と切ったカット尻とカット頭の切り口が超高級なカンパチ刺しみたいにビシビシ立ってる傑作です。まーやっぱり男だったらカット編でつなぎたいですよね。

映画本編を「小説」とすると、予告篇は5・7・5の「俳句」のような世界なんだけど、
だからこそ一語一語、ワンカットワンカットの「画の強さ」は凝縮されます。

この凝縮された感じを味わえるのは予告篇だけなんですよね。

だからこそ予告篇「だけ」の名作ってものがあるんだなあと思うわけです。











[ 2017/04/23 18:12 ] 予告篇の名作 | TB(-) | CM(-)