赤ん坊的な人

■ 昨年から赤ん坊的な人が家にいてアレなんだけどなかなか無い機会なんで手足の所作など眺めながら、どこに行き着くともない考えをぽつぽつとめぐらせてしまうのです。

『日本の歴史を読み直す』の網野善彦先生によれば、「非人」「穢多」という言葉が文献に登場するのは12〜13世紀以降だそう。

あまり知られていないことだけど、この「被差別的な身分」の人々が世間からネガティブな視線で見られるようになるのは江戸時代以降。

江戸以前まではどうだったかというと、ケガレに関わる仕事、つまり牛馬の扱いやその死体の処理、人々の葬送、墓守、罪人の処刑、などに従事しながらも「聖」の存在であったという。

つまり、人々に畏れられていたケガレを清めることができる特殊な能力をもつとされた人々であり、一般の世のヒエラルキーには属さない、「神仏の直属の部下」、
つまり人と神の境界にある、あわいの存在が「非人」や「穢多」だったのではないかという。

彼らの呼び名というのがまた面白くて、誰も彼もに「丸」がつく、「童子」がつく。例えば国末丸、吉光丸、牛飼童、八瀬童子などなど。

「丸」も「童子」も童名、つまり子供につける呼び名だ。童名を呼び名に入れる風習は他にもあって、例えば光進丸とか、鬼切丸とか、船舶の名前、武具甲冑につける名前、あとは笙(しょう)や篳篥(ひちりき)といった楽器の呼び名などに使われる事が多い。

これは童という存在が、人と神の境界に位置し、特殊な力を持っているからではないかと。命を賭した戦場で使う武具や、一寸先は闇の海で、あるいは神々との交信機材としての楽器に、あわいの存在の力を頼ったのではないかと。

まして同じくあわいの存在である「非人」たちが童の名を冠し、その力にあやかるというのはしっくりとくる話だ。




■ うちの赤ん坊的な人に目を移せば、大きなオムツをまとってM字に足を開き、両の手を万歳よろしくばーんと上げて地蔵のような面構えで無心に寝ている。かと思えばふいに目を開けてエヘアハ笑っている。神々しく感じようと思えば思えなくもないが、どちらかといえば阿呆のような顔に思える。しかし阿呆の神聖というものもあるのか。キリスト教にも「聖痴愚」という思想が割と根底の部分にある。

ブッダ爆誕前のインドではバラモン教がメインストリームだったわけだけど、ブラフマン(宇宙的究極真理)にアートマン(自分)がどれだけ近づけるかの勝負であり、それには苦行有るのみ、眠らない食べない体中に針を刺してアートマンを痛めつけて意識朦朧となればなるほどブラフマンに近づけると信じられていた。

「いつ」「どこに」「誰が」という見当識の3座標を失えば神の領域に近づけるというか、ちょっとドラッギーな世界に感じる。言ってみれば大人的な見識をすべて失って赤ん坊状態に戻ることを目的にしているように思う。あるいは「死」に近づけば近づくほど真理に近づく、ということか。バッドトリップ信仰ともいえる。

一方ブッダはバラモン教の絶対真理であるブラフマンは存在しないとして、すべては相対的で抽象的な「空」であるとした。相手がいるから私がいる。私がいるから相手がいる。どちらかがいなくなれば、どちらもいなくなる存在。

ブッダはバラモン教を否定したのかと言えばそうではなく、発展させたのかなと思う。
アインシュタインの相対性理論が、古典力学であるニュートン力学の発展形であるのと同じく。



■ 宗教学者の岸本英夫は自らが不治の病であると知ったときに著書『死を見つめる心』で自身の心を内をこんなふうに分析した。

「死の問題をつきつめて考えていって、それが〈この、今、意識している自分〉が消滅することを意味するのだと気がついたときに、人間は、愕然とする。これは恐ろしい。何よりも恐ろしいことである。身の毛がよだつほど恐ろしい」

赤ん坊的な人がヨダレをまき散らしながら体を回転させようとしている。この人に一体「自分」という意識はどこまであるのか。
自分と他人、自分と世界。境目のはっきりしないあわいの世界で、怖くて怖くて身をよじるのか。




■ 山内昶さんの「タブーの謎を解く」によると、
人類学者のターナーが境界(リーメン)論のなかで主張するには「境界性(リミナリティ)は、死や子宮、不可視なもの、暗黒、両性具有、荒野、日月の蝕に象徴される」とのこと。

境界は神聖であると同時に危険なものであり、忌避すべき「汚穢」でもある。

畳の縁は踏むなと言われるし、「誰そ彼」時や「彼は誰」時には神隠しに会うという。
水生動物と陸上動物の間に位置する動物には誰もが不気味な印象を持ち、
固体と液体の中間、ぐちゃぐちゃドロドロしたものは世界中の誰もが嫌悪感を持つ。

子を産んだ後の胎盤=胞衣(えな)は忌避すべきものとして決められた場所に埋めなければならなかった。
中央アルプスにある百名山の一つ、恵那山(えなさん)には天照大神の胞衣(えな)が納められたとして信仰の対象になっている。

tomb (墓)とwomb (子宮)は語学的にも文化的にも強い関連がある。
エジプトのピラミッドしかり、世界の権力者の多くは死からの再生を願って「子宮」に見立てた「墓」に埋葬された。



■ 古代の狩猟採集民は新しい野営地に着くと、まず一本の棒を地面につきたてたという。そうすることではじめてカオスから抜け出て、上と下、右と左といった世界の区別をつけることができる。

古事記によればイザナギとイザナミは混沌に棒を突っ込んでかき混ぜ、したたり落ちたしずくで島をつくることで国を生んだ。

うちの赤ん坊的な人はどのようにして境界の世界から抜け出すのか。
それは一体いつどのようにして起こる出来事なのか。
AIが「意識」を持つ瞬間も同じ現象が起きるんだろうか。



■ キューブリックの「2001年宇宙の旅」では人工知能の死ぬ瞬間が克明に描かれていて、これは「プライベート・ライアン」の後半で、ドイツ兵にナイフを胸に突き立てられて「ちょっと待って待ってタンマまずいまずいヤダやめて」とかのたうち回っているうちに、身動きとれないまますごーく"ゆっくりと"刺し殺されるシーンを思い出します。あれの何倍か怖いわけだけど。

かたや続編の「2010年」では人工知能・HAL9000を再起動して甦らせるってシーンがあるんだけど、「もしや今度は"生の瞬間"を劇的に描いてくれるのでは…?」とか期待してたら、
「やあ、どうしました?」
とか普通に目覚めちゃって、なんだかなあと思いました。
まあアレはアレでHALがすごく可愛く撮れてるHAL好き悶絶映画に仕上がってるんで、別モノとして面白いなあとは思いましたけど。















[ 2017/04/16 11:55 ] 雑記 | TB(-) | CM(-)